「『共有結晶』レビュー、あるいはBL短歌についての覚書」再録

『共有結晶』の通頒が2021年10月末日に終了するとのお知らせを受けて、以前書いた文章を誤字等直して公開します。

同志社大学の短歌サークルである「同志社短歌」で、2017年9月に発行した会誌「同志社短歌」4号に掲載したものです。主に各号への感想文です。
『共有結晶』がより多くの関心のある方に読まれることを願います。

 

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共有結晶通頒

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『共有結晶』レビュー、あるいはBL短歌についての覚書

はじめに

 BL短歌、知ってますか。ああ、本が出てますよね。短歌を作っている周囲の人々にBL短歌についての話を振ると、日常生活でふと話題になった「ボーイズ・ラブ」という言葉についてまわるあのぎこちなさと共に、そう返されることが多い。
 しかし、私には、短歌の表現や読みのモードに関して、また創作活動のひとつの手段のあり方として、もっとわくわくする、興味深いことが起きているのではないか、という気がしてならない。
 そこで、本稿ではBL短歌合同誌『共有結晶』について紹介したい。『共有結晶』はBL短歌の作り手による、BL短歌の集積であり、BLを愛好すること、短歌で表現することに対して現代的な問題意識を持ち、世に問うている同人雑誌である。先に前提となる用語やあらましを説明したのち、次に『共有結晶』の活動を取り上げたい。

●ボーイズ・ラブ
 BLとは「ボーイズ・ラブ」の略称であり、男性(少年)同士の恋愛等を題材とした小説、漫画のジャンルを総括して指す日本の用語である。六〇年代、少年同士の恋愛的な関係等を描いた少女漫画に端を発し、雑誌『JUNE』の発行以降にはJUNE、やおいと呼ばれ、八〇年代~九〇年代にボーイズ・ラブという言葉が普及した。商業出版のレーベルとして定着しつつ、アマチュア作家による同人誌文化と相互に影響しあい、現在では、男性同士の関係を中心とした物語というゆるやかな概念となっている。女性同士の関係性については「ガールズラブ」もしくは「百合」という呼び方をされる。
 異性愛規範の強い社会とは異なる形の恋愛や、個人と個人の関わり方の関係性、感情を描くことができるジャンルとしての魅力、性的描写を含むある種のポルノグラフィとして楽しまれる側面も持ちつつ、ジェンダーセクシュアリティに関して深く考えるきっかけとなる場合もあり、多種多様な受容をされている。特に、社会において依然弱者の位置にある女性にとって、個人として対等に尊重される関係のドラマを楽しむことができ、時には性的コンテンツを享受する主体性を持つことのできるジャンルとして人気がある。
 「ミステリー」や「SF」のように、ジャンルとして普及しつつも「BL」の示す範囲は曖昧かつ広範にわたり、BL俳句の同人雑誌『庫内灯』の巻頭では、BLに関して

ヘテロではない関係性のことをBLと呼びたいです。(中略)恋愛がヘテロのものではないという可能性があること、あるいは恋愛と違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。」
(佐々木紺『庫内灯』一号、二〇一五)

と述べられている。ヘテロとはヘテロセクシャル、もしくはヘテロセクシズム、異性愛主義の略。社会において規範化されているものとは異なった人生のあり方を描くことは、より多様なあり方を受け入れる精神的土壌を形成するかもしれない。BLには、性別、属性に求められる社会的規定とは異なる、より曖昧で個人的なあり方を見ることができ、BL愛好者にとってのBLは、このようなフェミニズム的な志向も含むことがある。

●BL短歌の流行と『共有結晶』
 短歌においても同性愛を題材とした前例はあるが、BL短歌としては二〇一〇年前後からインターネット上でツイッターハッシュタグ〈BL短歌〉の輪が広がり、二〇一二年にはBL短歌合同誌実行委員会による同人雑誌として『共有結晶』が文学フリマ東京で発売された。現在、第三号まで刊行されている。
 また、BL短歌の広がりを受け、俳句での試みとして、二〇一五年からは前述のBL俳句の『庫内灯』も刊行され、現在第二号まで刊行され、第三号も刊行予定である。
 『共有結晶』はBL短歌作品だけでなく、BLから短歌に興味を持った人のための短歌の作り方や、誌面歌会の形で読みの深め方を紹介し、BLと関わりのある歌集の紹介、他の表現分野とのコラボ、漫画、小説、評論といった幅広い領域をカバーしており、まさに短歌総合誌のような「BL短歌合同誌」として、BL短歌の意義や楽しさ、可能性を示している。 


『共有結晶vol.1』


 「BL短歌とは何か。BL短歌は「五七五七七に萌えをぶっこむこと!」私はそう言いました。」『共有結晶』創刊号の巻頭で、主宰の谷栖理衣はこのように表現する。(ところで「萌え」について説明すべきだろうか。対象に対する傾倒や執着を含む愛情的な感情と言えるが、いわゆる「尊い」というニュアンスも含み、定義が難しい。)さらに続いて、

 「彼らが相手に抱く思いとは。彼の住む世界とは彼にとって何であるのか。そしてそれらを考え、表現するわたしとは何であるのか。(中略)ときにわたしは彼であり、別のときにはもうひとりの彼です。あるときには彼らを見つめるまた別の何かでしょう。そしていつかには「彼らがすきなわたし」です。そして彼はわたしであり、しかしわたしとは全く別の世界で、別の身体で、別の考え方や感じ方で生きている誰かでもあるのです。」

と「何にでもなれる私」の感覚をBL短歌の魅力と言う。短歌の主体が有限な一人の作者自身である必要はなく、フィクショナルな詩的空間において、真実味のある思いが表現されることで、実作者の生活からはフラットな距離を保ち、かつその感情に寄り添い、萌え、詠嘆することができるということだろう。第一号の企画ではこの「何にでもなれる感覚」、すなわち短歌の主体についての考察が中心となっている。

サンフランシスコのチャイナタウンの朝焼けを君と見ている 時差のある部屋
    岩川ありさ「フライト・スケジュール」
廢校の庭人気なく夕さればたちまちしるき蟲の鳴くこゑ
    北夙川不可止「星月夜」
無責任なハッピーエンドを歌おうよカラオケルームの中でくらい
    黒澤蜜(自由詠)
惑乱の五月少年ひらかれて翡翠の都の遺跡となりぬ
    佐々木紺「カレンダー」
いつの日か性なき性のまばゆさをたしかめるために蒔く透明な種子
    ネムカケス「裏庭」

 五首連作が二つの場合もあるが、十七人の参加者の十首連作の作品群から六首。作風として文語かつ耽美的な世界観が多く、短歌で言えば塚本邦雄、春日井健、松野志保、黒瀬珂瀾らが先行するが、むしろBLの文脈で言えばJUNE的な世界観にあえて乗っていると言えるのではないか。

薔薇や百合ばかりが好きという我らこの人類はゆっくり滅べ
    谷栖理衣「完全なる自由の標本」

 薔薇はBLの、百合はGLの別称。これらを愛好している側の視点に立ち、薔薇や百合に囲まれて滅ぶことを願うような、情熱と破滅の短歌だが、「愛好する自分」を押し出した歌が印象に残った。
 なお、ページの隅に「BL読みできる短歌」ということで、様々な短歌の紹介をしている。短歌に馴染みがなくとも、また短歌をよく読んでいても、意外な短歌が選ばれており、BL読みすることで違った印象を味わえる。

●対談
 主宰の谷栖理衣が、参加者等と対談し、BL短歌について分析していく。わたぬきとの対談「BL短歌対談」では、萌えを小説や漫画で物語にすることは理解できる形に加工する側面があるが、短歌の場合は情熱を凝縮できるという違いを指摘する。
 さらに、BL短歌において主体はBLの登場人物、キャラクターでもあるが、詠み手である「わたし」の要素も持ち、その関係はグラデーションになっているとして、『短歌という爆弾』(穂村弘、二〇〇〇)の「虚構の〈われ〉の構築」を取り上げ、短歌の詩形では、三人称的な彼らについて詠むことも、「わたし」自身を語ることも可能であると言う。
 BLにおける作者・読者の立ち位置もまた複雑であり、「受けと攻めのどちらに感情移入するのか?」というBL愛好者への問いに「第三者視点から見ている」と答えることについて、そうでない場合もあるが、性的な語りにおいて第三者視点にならなければならないという強迫観念的なものがあるのではないかという点から、BL短歌の「何にでもなれる私」の軽やかなあり方の可能性を述べる。
 宇井彩野との対談「BLと百合――性別越境と表現――」では、「何にでもなれる私」というキーワードについて、百合・BLでは、異性愛に限らず、恋人や家族といった規範的な関係性からずれた関係に、男性であること・女性であることの抑圧から解放される感覚を味わっているのではないか、また、身体の他者性をどのようにとらえるかという点に表現の違いが出るという推測が述べられる。

 第一号は、BL愛好者にとって短歌がどのような表現手段となり得るのか、BL愛好者のBLに対する精神的態度について言語化し、「何にでもなれる私」をキャッチコピーとして、やや粗削りな面もあるがBL短歌の魅力や新しさを提言している。


 『共有結晶vol.2』


 第二号はぐんとページ数が増し、連作の参加者も三十四人に増えている。連作のページ下にある、短歌の読みを妨げない小さな文字での「短歌評」が特徴的で、歌会の抜粋のようなコメント群が、短歌もしくはBLのストーリーを読む道標となっている。

一斉に新宿駅を火は流れみんな遠くへ旅立つ運命(さだめ)
    穂崎円「サザンテラス」
永遠の長さをひとりではかってる半分過ぎたらごほうびがでる
    似子「きみだけに聴こえる声で話したい」
あのこたち知らないんだねぼくたちにこんなに高いチョコを捧げて
    本多響乃「とろけてしまふと指がよごれる」
けふ豚の屠殺を見ました蠅曰く性の目覚めは常に夏です
    ネムカケス「祝祭は過ぎて」
ぼくたちを透明にするきみのこともう意地悪と呼ばない 雨だ
    平田有「雨を恋うひと」
そうやって彼らを嫉妬に狂わせておいてわたしはあなたと寝るの
    佐木綺加「隣星」

 作品六首を引いた。相聞的な歌が多いが、BL読み・BL短歌においては、その感情をフィクショナルな次元でとらえつつ、そこに含まれるひとつの切なさや狂おしさに萌え、感じ入るような読みのモードがはたらき、距離感を保って鑑賞することができ、短歌評にはBL読みするとより意味が深まるというコメントもある。情緒的なうつくしさのある短歌が多く、時折BLの定番ネタが挟まっているところに、BL読者として頷き、楽しく思う。

川口晴美・飯田有子対談「腐女子として、書くこと」
 詩人の川口晴美歌人の飯田有子との対談イベントの記録である。ここでも、実作者と作品内部の主体との関係を取り上げ、作者と独立して読まれるべき作品が、実際には表面的な作者の属性に回収して読まれ、表現は「作者の内面を書くもの」という前提意識が強いという点、一方で表現それ自体は、内面と無関係ではないことから、本質的なものとして「たましい成分」が表象されているかどうかが重要であるという指摘がされる。
 この「たましい成分」という語は、短歌において作者の実経験であってもそうでなくとも、そこでリアリティや真実味を読み取れる表現が為されているかどうかを重視する姿勢と通ずるところがある。
 BLとしての完成度と短歌としての完成度の両立についてのイベント会場からの質問への、読みの軸の違いがあるという解答に、BL短歌への批判において見過ごされやすいのは、読みのコードの違いなのではないかと感じた。

●特集
 「圧縮←→解凍」をテーマにしており、前号で掲載した短歌や歌人の作品の読みを小説や漫画の形で「解凍」して伝え、また参加者の書いた小説を短歌に「圧縮」する企画で、短編小説や漫画と短歌を見比べて楽しむことができる。
 初心者が短歌をブラッシュアップする「BL短歌道場」という企画では、表現したいイメージやBLの状況を添えた作品をもとにアドバイスを交わし、より詩的で表現したいことに即した短歌をつくることに挑戦していく。

●評論
 照井セイの評論「革命のそのあとで」では、現代でBL短歌の持つ意義として、歴史的新規性というよりも、個人的な「自分の萌えを形にすること・相手の萌えをより鮮明に受け取ることという行為が生まれる(パフォーマティブである)こと」が主張される。
 岩川ありさ「BL短歌のふるえ方――クィア・リーディングとしての『BL読みできる短歌』」は、「BL読み」を、既存の解釈を再解釈し、欲望の在り方を考えるクィア・リーディングの一形態ととらえ、BL読みを実践する。そして、BL読みによって排除される部分にも目を向け、読む位置にいる主体としての自覚が求められることを指摘する。
 BL読みは、BL愛好者としての個人的な経験のなかで短歌を受け取り、楽しむことができる。自覚的に好きに読み、好きに読まれることを許すことは、誠実に他者の言葉をとらえ、受けとった自分自身の感情を尊重する営みと言える。

 第二号では、おそらく第一号を刊行した後の反響を受け、BL短歌の意義を考える評論など、BL短歌のあり方を模索する方向性になっている。短歌の作り方や短歌の読みについて、「圧縮」と「解凍」として様々な形態の表現によって、短歌の受け止め方を広げ、BL読者に短歌を開き、硬軟織り交ぜた形で短歌を楽しむことを勧めている。


『共有結晶vol.3』


 第三号はさらに分厚く、三十六人分の連作と、特集として「悪」がテーマの短歌を中心とした企画に加え、『JUNE』において詩歌欄を担当していた藤原龍一郎へのインタビューが目玉である。

近付くためのつま先でまた踏みつける花びら花びら剥がれないまま
    穂崎円「シザー・ハンズ」
つい昨日つかれた嘘も回る寿司ながめるうちに忘れてゆけり
    山階基「青の空洞」
七割の感情でいい夕暮れの海に溜まった光りに触れる
    佐々木紺「non-fiction」
手の甲をふたつあわせたかたちですぽつりぽつりとうらえる雨は
    平田有「旅立ちは夜」
三万円くれれば抱かれてあげるよと告げれば遠き天体図鑑
    岩川ありさ「図書館は宇宙よりも広い」
はつなつのつんとピアノに立つゆびは ゆびだけは美化してもいいから
    笠木拓「うたかた」
ラ・フランス ラといふときに舌先がふれてゐた場所 描写してごらん
    本多響乃「ししくしろ黄泉で待つとや」
夕暮れと呼ばれる種類のあたたかな水みちてきてあなたが浮かぶ
    雨季「白いしかくい赤くてまるい」
たかが神、落として緑 にんげんがにんげんにするように愛せよ
    山中千瀬「blue」
マジシャンがついに誰にも突き立てぬ華麗な剣のようなるペニス
    飯田有子「ふたりふたり」
 


「短歌と短歌評」から十首。第二号と同じく、各連作のページ下に小さな文字で評が添えられている。第一号から参加している作者の作品は、特に表現が洗練されているように感じ、『共有結晶』を追いかけて読んできた身としては心強い。
 BLの「お約束」や「テンプレート」を使いながらも、個々の情念や関係性に対する表現のオリジナリティを感じられる。五首目には、寄宿舎での少年同士のやりとりといった物語を想起した。
 相聞性の強い短歌には祈りの念の含まれる作品が見られ、思念的な向きもあるが、相手を希求しつつ他者を尊重しようとする誠実さは、繊細な関係を描くなかで、揺らぎや不安感に対して祈りの気持ちが表現されているように思った。

●悪の短歌

ローションをたぷんたぷんと傾けて尻の穴から溺れる準備
    松本てふこ
憎しみのための憎しみ前髪からしたたるぬるい珈琲のしみ
    なめこ
恋に似た悪意があってまなざしに芙蓉しずかに撓みつづける
    佐々木紺
うらにはにうめたてぶくろうらにはにうめたてぶくろうらにはにてと
    本多響乃
ばいきんまん
    濡れているあいつの顔を原っぱではひふへひとり拾う春の夜
石原ユキオ

 「悪」の短歌特集から五首。テーマ「悪」ということで、参加者の短歌一首ごとに他の表現方法がコラボする、集合写真のような企画である。短歌に対して、写真、イラストレーション、フォント、漫画、詩、小説が付された耽美で恐ろし気な一連は、連作といった形態とはまた違った、ギャラリーに展示された作品群を眺めるような気分にさせられる。終わりには「短歌検討会」での短歌への短いコメントが書かれており、第一号から一貫した「短歌をどう楽しむか」ということを読者に寄り添って提示する姿勢をうかがうことができる。

●JUNE短歌・BL短歌〈藤原龍一郎編〉藤原龍一郎インタビュー
 藤原龍一郎は八〇年代から九〇年代の十八年間、『JUNE』で「黄昏詞華館」という詩歌選歌欄を受け持っていたらしく、BLに先立って生まれたJUNEの詩歌はどのようなものだったのかというインタビューである。
 非常に読み応えがあり、藤原龍一郎の選歌において文学的価値を重視する姿勢と、一方で欄に投稿される優れた詩歌を、一般の詩集・句集・歌集の流通ルートに乗せる方法がわからなかったという話が印象的だった。

 三号は、先例であるJUNEでのBL短歌的なもののアーカイブ化や、『共有結晶』の活動略歴がまとまっており、BLと短歌の関わり方を深めつつも、歴史的意義や政治的態度に回収されることのない自由な表現の方向を探る姿勢を感じた。

 
終わりに


 『共有結晶』三号分の感想を述べたが、BL短歌が新しい短歌のあり方として現れ、これまでとは異なった価値観を持って短歌と関わることは、短歌の歴史のなかでも、大変刺激的でおもしろい状態だと思う。
 萌え、と一言で言うが、感じ入り、詠嘆する、個人的かつ普遍的な、心の深いところを揺さぶる感情を、一つの作品として形作ることは表現の根本的な喜びである。短歌に馴染みのない人に対して楽しむとっかかりになるような企画や、一首の読みの多様さを示し、短歌をBL的に再解釈する「BL読み」、BL的な短歌の歴史を調査し、理解を深める特集など、誌面上の様々な企画には、そのような喜びを真摯に扱う姿勢が感じられる。
 参加者はひとつの共通理念のもとに集っているというよりも、個々の思想や創作意欲をもった人々が、自らの感じるBLのあり方や短歌のおもしろさを、作品を通して、さらに様々な企画を通して伝えようとする。『共有結晶』の様々な試みは、素朴な「なぜBLで短歌なのか」という反応に対して、「短歌っておもしろいよ」と正面から楽しみ方、深め方を示し、読者に新しい表現形式への道を開く。

 

参考文献 
BL短歌合同誌実行委員会、『BL短歌合同誌「共有結晶」』、2011年
『BL短歌合同誌「共有結晶」vol.2』、2013年
『BL短歌合同誌「共有結晶」vol.3』、2014年
『二次創作短歌非公式ガイドブック』、2017年
佐々木紺編『庫内灯』、2015年
かかり真魚編『庫内灯2』、2016年

『共有結晶』ホームページ
http://bltanka.info/(最終閲覧日:2017年8月26日)

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※『共有結晶』ホームページは現在閲覧できません。

 


改めて見ると内容的には評論風じゃなくて、もっとゆるくした日記風の文にした方がよかったな、と反省。

私が短歌を作るようになったきっかけのひとつに、共有結晶の存在があります。

まだ受験生のとき、Twitterで短歌のネットプリントの告知や共有結晶への感想を見て、短歌ってやってるひとがいるんだ、と思ったのが短歌との出会いでした。

定期的に発行されるネットプリントをコンビニで出力するようになって、共有結晶を手に入れて、それから短歌を読むようになって、大学で短歌サークルに入って、いまに至ります。
さまざまな企画を通して「短歌っておもしろいよ」と伝えようとするところがすごく好きでした。
共有結晶に関わった方々に感謝と敬意をこめて、お疲れ様でしたとお伝えしたいです。

 

(私、たじまの当時のアカウントや別名義がわかる方もいらっしゃるかもしれませんが、趣味のアカウントですのでそっと胸に秘めておいていただければと思います。しらない人にしらないところでアカバレ・身バレが発生するのを避けたいので……。)


2021/10/16追記

本文中の内容を一部変更しました。